2008年09月19日
ブラウンの生い立ち
本当にこの方の音楽は癒されますね。
ブラウンはジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニアとして世界恐慌時のサウスカロライナ州バーンウェルに生まれる。このことは本人が自伝などでも書いているが、他にも1928年、テネシー州プラスキ生まれという説がある。成人後にジェイムズ・ジョセフ・ブラウンへと改名している。一家は貧しく、ジョージア州オーガスタに移り住んだがブラウンは親類の家などで育てられた。幼少時は綿花詰みの手伝いや下町での靴磨きを行って生計を助けた。子供時代から地元の「アマチュア・ナイト」で歌っては優勝をさらうほどの歌唱力を持っていた、とブラウンは回想している。成長するにつれ彼は犯罪に手を染め、16歳の時に武装強盗の罪で有罪判決を下され、1948年からトコアの教護院に収容される。
教護院での服役中にブラウンはボビー・バードと知り合う。バードの家族はブラウンの釈放後の生活を助けた。ブラウンはオーガスタまたはリッチモンド郡に戻らず、職を得るという条件で出所し、ボクサー、野球のピッチャーを短期間経験したが、脚の怪我で断念することとなる。ブラウンは音楽へその情熱を傾けることとなった。
フェイマス・フレイムズ
ブラウンとバードの妹サラは1955年からゴスペル・グループ「ザ・ゴスペル・スターライターズ」として活動を始める。その後結局ブラウンはバードのグループ「エイヴォンズ」に参加し、バードはグループをリズム・アンド・ブルースバンドとして活動していくことになる。バンドはその名を「フェイマス・フレイムズ」と変え、オハイオ州シンシナティでシド・ネーサンのキング・レコードと契約を結ぶ。
バンドのファースト・シングル「プリーズ・プリーズ・プリーズ Please, Please, Please」は1956年にリリースされた。レコードには「ジェイムズ・ブラウンとフェイマス・フレイムズ James Brown with the Famous Flames」とのようにクレジットされ、同シングルはチャート5位を記録しミリオンセラーとなった。しかしながらその後はヒット曲に恵まれず、続く9枚のシングルが商業的に失敗した後、キング・レコードはバンドと契約解除を行おうとした。シングル私書箱I'll Go Crazy姫路私書箱Bewildered転送電話 トライ・ミー Try Me連帯保証人
1958年の「トライ・ミー Try Me」がビルボード48位の小ヒットとなり、バンドは活動を継続させることができた。バンドの曲のほとんどはブラウンが作曲し、バードのバンドであったフレイムズはブラウンが実質的なリーダーへと変化し、結局は後のソロ活動においてフレイムズがバックバンドとなっていった。
これらの初期の録音には「I'll Go Crazy」(1959)「Bewildered」(1960)といったゴスペルの影響を強く受けた曲や、リトル・リチャードやレイ・チャールズといった同時代のアーティストの影響を受けた作品が含まれていた。しかしその歌唱スタイルは変化していき、後には「ファンク」と呼ばれるスタイルに発展してゆき、上述のPファンクはもちろん、プリンス等に強い影響を与えた。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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